さて、移民も取れて、仕事も辞めて。
自分でお仕事を始めたい気持ちはずっとあったけど、いかんせん先立つものがないので、いきなり何かを始めるのは無理、ってことでこの時は普通に転職活動。
日系の旅行会社数社と留学エージェントに応募して。
最初にとある留学エージェントにすぐに採用してもらえたんだけど、
多分私が元マネージャーだったので私から情報を抜こうとしたのが目的だったのか、
いろんな業務上の私が経験してきたり得てきた情報を聞き出され、
渡せるような情報だけ渡したところでいきなりクビにされたりしました。
そういうことできる人間性を疑うよね、、もう名前も覚えてないけど当時イエールタウンにオフィスがあったエージェントでした。今も生き延びれてんのかな。。
まぁ相談されたら私はおすすめはしない。私の元職場ももちろん。
旅行会社は2社応募して2社とも採用もらえたんだけど、
某J社は冬になると2か月くらい休職扱いになるポジでちょっと微妙。H社は一般職で応募したけど経歴見て留学部門で働かないかとお誘いいただき、さらに面接後に当時のマネージャーさんに丁寧に個人的にぜひ一緒に働きたいとメールまでいただいたものの、いかんせんお給料が。。
その時同時に応募していたカナダ人企業であるものの日本の企業にも英語学習留学プログラムをたくさん販売していた業界では有名なM社からもオファーをいただき、月給が$1000くらい違ったんですよ💦
H社のマネージャーさんの熱い気持ちと、私もこの人の下で働いてみたいなぁという気持ちもあってものすごく迷ったけど、さすがにお給料の開きが大きすぎてカナダ企業を選択。
まぁ今となっては結果正解だったとは思う。
結局J社もH社も私が就職した会社のお客さんだったので、仕事の上でのちのち顔を合わせることにはなったんですが。はははー
でも結局私がこの会社でしていた仕事内容はほぼマネージャーといってもいい内容で、私と同じポジションの人は私のほかに2人(トロントに本社があるのでそっちにも数人)いたけれどそれぞれがマネージャーといってもいい感じで。プロジェクトベースでお客さんに合わせた短期留学英語学習プログラムという名のプロダクトを一から作る、つまり現地教師を面接して雇い、現場で動き回れる現場監督的な人も探して雇い、学習用の施設をブックし、エクスカージョンなどの訪問先を選び、それもブックし、現地の学校(高校とか)との交流があれば学校ともやり取りして、バスやホテルなどの手配、ホームステイの手配自体は別の課の人がやるけどそのための事前情報の精査(アレルギーとか諸々)、全部をそのプロジェクト担当がやるという、なかなか過酷だしストレスの多い仕事。
圧し掛かる責任がね、、、だってバスの手配とか忘れたら詰む。グループによっては来る生徒の数100人とか超えたりして。
でもその分自分で考えてプロジェクトを作り上げていく側面がすごく楽しくて、私には本当に合っていたし、仕事自体は本当に好きでした。
実際にグループが来る際は総合監督として顔を出したりもするのでBC州とAB州内で普段いかないようなところによく出張で行けたりしたのも楽しかったな。
特にBC州内はそういう意味で思い入れのある土地が増えました。
ケロウナ、ペンティクトン、サーモンアーム、レベルストーク、サンシャインコースト、スコアミッシュ、、、
サーレーとかバーナビー、ラングレーとかは公立校ともよくやり取りしたので、現地校もしょっちゅう訪問していて、校長先生と仲良くなったりしたのもいい思い出。
人間関係も、まぁ色々あったにはあったけどそこまでひどくはなかった。
ただね、、もうこれは業界があかんと思うんだけど、
やっぱりホームステイありきのビジネスには限界があると思う。
家庭なんて100あれば100通りあるわけだから、お金を取って100人を100家庭にプレースするって、どうしたって蓋開けてみたらダメな家庭もあるし、ダメまで行かなくってもものすごくいいご家庭と比べたらやっぱり不満が出てくるし、同じお金だから同じサービスってわけにいかないんよ。
不満につながるよね、それは。いくら当たりはずれがあると(そんな言い方はさすがにしないけど)旅行会社が事前に説明してくれて対策をしていても
ホームステイ関係で全く問題が起きないグループなんて絶対にありえなくて、
グループ滞在中はいつ携帯がなるかといつもヒヤヒヤ。
大人相手のホームステイならまだしも私たちが手配していたのは全部未成年(主に高校生、たまに中学生、まれに小学生)なので、さらにケアが必要だから特に。
夏休みがグループの到着が爆発的に増えるので夏は毎年ストレスで禿げそうになっていたけど、ある夏私が担当したグループが軒並み超癖の強い学校(さらにエージェントも使えない)が重なり、ストレス限界に達して、辞めることを決めた。
本当に仕事は好きだったんだけど、ただ、この仕事してたらいつ呼び出しかかるかわからないから仕事の後の習い事とかもろくにできないし、ということは当然副業なんて始めている余裕はなくて、どうしたもんかなぁと思っていたのもあって。
そんな時にピアノ屋さんを経営している同い年のカナダ人のお友達がいたんだけど、彼に相談したら「ちょうどうちのお店で長年活躍してくれてたアドミンが辞めちゃって困ってるからうちで働く?」とお誘いを受け。彼はユダヤ系で、メンター(ビジネスなどで成功したいと思っている人をアドバイスなどして導いてあげる人)をするのが好きな人だったので、お給料も前の会社と同じだけくれると約束してくれて。
ピアノ屋ってw って正直私も衝撃w
私ピアノのぴの字も知らないんですけど、、、ヤマハくらいしか知らんし😆
当然弾けないし、楽譜も読めんしw まぁ売るわけではないから必要ではないかもしれんけども。。。と。
実際働き始めて私がやってた業務内容は、
まずはぐっちゃぐちゃになってた月額制のピアノレンタルのお客さんの情報の精査、支払いが滞ってるお客さんにコンタクトして、カード情報更新してもらったり、レンタル辞めるなら引き取りの手配したり、それでも払わないお客さんには少額訴訟起こしたり、、(書類作って裁判所行くの。いろんな意味でいい経験したわ😂)
そうこうしてるうちにもう一人いたアドミンが使えんという理由でクビにされたので、(というか最初から彼女が使えないからうちで働いてと言われたんだけどね)通常業務も私に回ってきて。
ピアノ屋ってどういう業務してるか想像つかないよねw
私もピアノ売ってるだけかと思ってたけど、実は色々あって。
ーピアノレンタル(個人向け、月額制)
ーピアノレンタル(撮影や演奏会、イベント用、短期)
ー中古ピアノの輸入販売
ーピアノの引っ越し手配(普通の引っ越し業者ではピアノは扱えないため)
ーピアノ調律師の手配と派遣
ーピアノの一時預かり(個人向け:月額制)
ーピアノの一時預かり(業者向け:火事やなどの災害時に現状回復してる間預かって修理を行う)
ーピアノの修理の受付、派遣(または一時引き取りでの修理)
ーあ、もちろん新品ピアノの販売(それもめっちゃ高いやつ、、、一千万超えとかあったよ。。)
この手の業務、結構アナログでやってたものをできるだけデジタル管理できるようにして行って。中古ピアノは基本的に日本から買っていたので(タケモトピアノw)その上陸時の手配とか昔貿易の仕事してたのがここでちょっと役に立ってw
この時のボスは(つまり私の友人)、本当に私に良くしてくれて、
私がいずれ起業したいという思いを持っていることを知ったうえでいろいろアドバイスしてくれた。何がしたいのか、何が必要になるのか、どういうマインドセットが必要か。
そういうことも踏まえてアカウンティング的な仕事もさせてもらったので、ここで給料計算とか、そういう業務も経験したし、アカウンティングソフトウェアの使い方もある程度学んだ。
今でも忘れないけど、このころに彼に言われたのは、
誰かに雇われて、どんなふうに仕事しても必ず決まったお給料もらえる立場の方が何百倍も楽だし人生楽しめるよ。経営者になる、自分で進路を決めていくことは、聞こえはいいけど本当に、おそらく現在の君では想像もできないくらいのストレスだし、おまけにそれだけ頑張ったって成功する保証もない。軽い気持ちでは踏み込まない方がいいよ。
と真剣な目でアドバイスされた。
今経営者になって思うのは、本当に全く同じこと。
だけど、私は後悔はしていないかな。まだ一応踏みとどまっているから、失敗までは行っていないし。頑張れる余地があるうちはあきらめるつもりもないけど、ただ、本当に、ストレスだけは半端ない。
ある程度のストレス負荷がかかったらネジが外れて「はははーまぁなんとかなるわー」とはじけられるタイプの人じゃないと経営はできないと本気で思う。思いつめる人は簡単に体や心を壊しそうだと思えるレベルの負荷。でも後悔はない。
彼の元で働いて、ある程度仕事を無理なくこなせるようになったころ、自分の副業について真剣に考え始めた。
ずっと自分に何ができるか考えていた。
一番手っ取り早いのは留学エージェントを始めることだった。
最初はホームオフィスにすれば費用も抑えられるし、ホームページとかを作ることもグラフィックデザインとかも自分でやれたので、前職の経験を考えればやれるとおもった。
実は前のM社で働いていた時にすでにその準備は進めていて、ちまちまホームページを作って、なんなら市役所に行ってそのためのビジネスライセンスも取得していた。
でも、忙しさにかられたのもあって中途半端なところで手が止まってしまった。
一度止まってしまったら、その業務に対するやる気がそげてしまった。
なんでなのかな、、あそこまで作りこんだホームページもドメインとかの契約期間が切れてしまってアクセスできなくなってしまっていて、それをまた一からやり直したりする作業に心が折れたのもあるのかな、、
そもそも個人で小さく留学エージェントをやっている人は結構いて、
なんか規模感的にも「入り」としてはいいかもしれないけど、最終的にやりたいことは違うかなという感覚もあった。
お金さえあればレストランをやってみたいという気持ちも結構ずっと私の中にあったけど、当たり前だけどお店がないと成り立たないレストランは初期資金が半端ないのでお金のない私には不可能な選択肢だった。
。。。。今思えばレストラン、というか飲食やりたいとか、ばかだったなぁ、、とかちょっと思うけど。飲食、本当に大変です。今となってはオフィスを立ち上げたい気持ちの方が強くなってきているかも。ないものねだりなんですかねぇ。。まぁリスクが少ない分、そっちの方が勝ち残るのは難しいのでしょうけどね。
そんな時に、私がちょこちょこ自分用とか友達への差し入れ用とかに焼いていたケーキとかお菓子とかパンとかをSNSにあげていて、それを見た友人たちからお金を払うから焼いてくれないかというような要望が届くようになって。
そこまでしてほしい人がいるのであれば、これは商売になるんじゃないかなぁと思ったのが最初のきっかけ。
そこからそれをビジネスにするにはなにが必要なのかを調べ始めて、メニューを考えてダメ元でファーマーズマーケットにもアプリケーションを提出して、フードセーフを取得して。
ただ問題は、ファーマーズマーケット以外の場所で公に販売をする場合保健所の許可の下りているキッチン施設(お店)で商品を用意しなければいけないルールがあり、(BC州の基準は特に厳しくて、商業用のキッチンでなければまず基準は満たせない。つまり自宅キッチンで焼いたものを販売するのはNG)、商用キッチンがなければそもそもビジネスライセンスも取得できないし、ライセンスがなければリライアビリティの保険に加入することもできなかった。(もし食中毒や何か商品に問題があった時にカバーしてもらえる保険)
色々調べてコミサリーキッチンという商用のシェアキッチンの存在を知り、問い合わせをしてみた。まだこの頃は比較的コミサリーキッチンも走り出しの頃だったと思う、、まだ今ほど数も多くなかったし、そこまで一般的でもなかった。フードトラックの人たちがメインで使っていたイメージ。
すでに保健所の許可が下りているある程度の大きさのあるキッチンを、いくつかのビジネスでシェアしながら使うというコンセプトのコミサリーキッチン。
どのくらいの時間と場所を必要とするかで家賃が変わるシステム。
あの当時で、一番短い時間と狭い場所のプランを選んでも月の家賃は1000ドルを超えていて。(多分今だったらもっともっとするでしょうね、、こわ😖)
当時の自分の手取りのお給料から自分の生活費を引いたら結構足が出ちゃうくらいの金額。
しかも商品を用意しようと思えば材料費とか、そうじゃなくても型とか機械とかの設備費も必要になるし、家賃である1000ドル強を純利益で出すためには一体いくら売らなければならないのか、多少の友人が買ってくれる程度の当時の現状でこの契約をするのは相当に勇気が必要だった。
でも契約をしてライセンスを取らないことには公にビジネスの宣伝もできない。
でもさ、誰だって商売初めてそんなすぐにお客さんつかないの、容易に想像できるよね。
我ながらよく飛び込んだなと思うけど、旦那(当時はまだ結婚してないけど)にも苦い顔されながら腹を括って契約書にサインしたのが2017年の12月はじめころ。
この12月の間は多分色々準備してたのがメインで、特に何か有益なことはできていなかったんじゃないかと思うんだけど、月末が近づいてきたころに奇跡が👀
アプライしたこともすっかり忘れていたバンクーバーのファーマーズマーケットから連絡が。アプライしたのはその年の多分2月とかだったので、完全に忘れていて。
今ならわかる予備知識として、バンクーバー市のファーマーズマーケットはとてもしっかりした母体が運営していて、お客さんもものすごくしっかりついているため、他のどの市が行っているファーマーズマーケットよりもベンダーからの人気が高く、ベンダーの入れ替わりが極端に少ない(長い人はもう20年以上もベンダーをしているくらい)ため、特に加入したい人が多いPrepared Foodカテゴリー(ちょっとした調味料とか、甘いものとかの調理済み食品)やベーカリーカテゴリーはよほど商品が魅力的じゃないと入れてもらえない。
私のビジネスも例にもれず、入れてもらうためには魅力不足だったため2月に応募していても連絡一つもらえなかったわけだけど、この時連絡をもらったのはちょっと面白い企画に参加しないか、という内容だった。だんだんだーーーーん。
んにゃーーーー長くなってしまった。
疲れてきたのでその3に続くw